リンゴ日和

シロクマが好きな学生が書いています。

ぼくと対話の重要性

対話。主に二人で向かいあって話すこと。英語ではDialog(ダイアローグ)といいます。

「対話」とワードを入れて検索をすると対話と会話の違いや、対話をすることの重要性などわらわらと出てきます。情報通信技術の発展と共に、逆に対話の重要性が示唆され始めたのは1992年にNohria NitinとRobert G, Ecclesが「Structure, Form, and Action」 というタイトルで言及したのが始まりのようです(調べたらそんな感じでした)。

僕は、別に対話の研究をしているわけでもなく、ましてやカウンセラーといった職業でもないので対話について語るのはおこがましいにもほどがあると思いますが、日本にある言論の自由という権利の影に隠れて、一意見として対話について書いてみようかなと思います。

 

皆さん、対話って会話とどう違うと思いますか?(お時間があれば考えてみてください)

 

答えというわけではないですが、対話についてはワールドカフェ ネットさんが様々な文献から対話の定義にふれるものをまとめて掲載してくださっています(http://world-cafe.net/about/about-03.html)。

ワールドカフェ自体も対話を行うことが中心となるので、とても幅広い文献をまとめられています。気になる方はぜひ。

 

さて、そんなこんなで対話とはいろいろな定義の付け方がありますが、「心を開き、急がず、相手と対等に、真剣に話し合う」あたりが共通する要素のようですね。

さて、なぜ対話が大事か。

これは、多くの方が議論されているので僕が語るまでもないとは思いますが、何かについて理解を深めるためにとっても重要なんだと思います。

これは、相手の意見を倒すわけでも、自分の意見を押し通すといったことでもなく、相手と真剣に考えながら話すことで問題の本質や差異などに気づくための言葉の旅のようなものだと考えています。

 

例えば、僕は友達と喧嘩して泣いている子と話すことが割と頻繁にあります。

時間がなかったり、多くの子どもを見る必要のある先生とは違った立場として、よく話をきき、何が起きたのか、何が嫌だったのか、どう感じているのかなどを事細かに聞いて理解を深めていきます。

嫌ってこと自体そもそも主観的なものなので、常識や大人の通説みたいなものは一旦横においておきます。その子の経験から、その子が何を感じて、今何を思うのか。随分と遠回りなやり方ではありますが、その子の経験をただの嫌な思い出にしないために、僕からのお願いをよく理解してもらうためになるべくゆっくりと時間をとって話し合います。

そうすると、ここがこう嫌だったとか、自分も悪いことしちゃったから混乱しちゃってるとか、でも嫌なことをそのまま受け入れるのは嫌だとか、その子の中でこんがらがっていた感情が一つずつ言葉として出てきてくれます。それを一個ずつ並べて、その子と一緒に眺めてみる。すると、こういうことだったのかも知れない、とそのことについて少し理解が深まります。よくカウンセラーの方が「問題の本質も解決もその人の中にあることが多いので私たちの仕事はその人達の心に寄り添うことです」というようなことを仰っています。多分きっとこれはそういった手法の一つなんだと思います(技術は本職に対して大分劣りますが)。

喧嘩などショックが大きいものは特に、当人でさえ何が起きたかわかっていない状態です。第三者も客観的事実としてはよくわかりますが、その人の内面にまではもちろん理解は及びません。そういった中で、話を聞き、ときに自分の持っている情報(客観的事実に近いもの)を出したりしながら、お互いの理解の溝を埋めていくことが次のステップに進む上で重要なのかなと思います。

 

今日はちょっと長くなるかも知れません。

少し閑話休題として、心を開くことにも触れておきます。

僕の周りには、話し合いやなにかをする前にチェックインというものを行う人が多くいます。チェックインとは、ホテルなどで行うものではなく、「今の自分の身体の状態や気持ち」「どういう気持ちで参加したいか」などを共有するものです。

そうすることで、話し合いの最中とかに相手がどういう状態なのかを少し知れていて、すれ違いが起きにくかったり、スムーズに進んだりします。

そういった意味ではチェックインは、相手に自分の状態を伝えるという心を開く行為なのですが、結構難しいです。まずは自分の状態を自分でしっかり理解しないといけなかったり、それを恥ずかしがらずに伝えなければいけなかったりします。

変にカッコつけるとその自分でつけたイメージをロールし(演じ)ながらその後の話し合いを進むことになってちょっと大変だったりします。

そんなこんなで少し難しい心を開くという行為も慣れておくといろいろ便利だったりします。

 

さて、話を戻すと、ダイアローグの重要性ですが、先程の理解を深めることができるという結果としての良さの他に、理解を深める過程にも良さがあると思います。

先程格好つけて「言葉の旅」と表現しましたが、自分の気持を正確に言葉で表すのは難しかったりします(そもそも自分自体を理解することの難しさについても社会学でゲオルグジンメルという方が言及してたりします)。

その中で如何に、自分の考えや気持ちを正確に表現するか。自分のボキャブラリーや経験を通じた例などをとっ散らかしながら進む悪路の旅です。

しかし、部屋の片付けと一緒で、ある種一つのゴールを見つけたときは自分の言葉や相手の言葉によって地図が完成しており、とっ散らかった頭の中も少し整理された状態になっています。

努力こそは正義だ、なんて昔の根性論のようなことは言いませんが、たまには自分に対して本気で向き合って、持っているものをあれでもないこれでもないと探し回りながら探求する意味の理解への旅はとても有意義で、好きな方は心から楽しめるものなのではないかと思います。

 

 

ぼくと散歩との親和性

最近、エモいという言葉が多く使われる場面を目にします。「エモーショナル」に「い」を付けることで形容詞化したものですね。意味としては大方、心揺さぶられるといった感じでしょうか。

 

エモいという言葉が好きかどうかは置いておいて、散歩をしているとそういった場面に多く出会います。

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ここで風景ではなく場面と言っているのは、自分が景色ではなくそこにいる人や推測できる感情、文化、雰囲気など五感で感じるもの全てを指しているからです。

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そう言った場面に出会うこと、またはそこに一人のアクターとして入り込むことはある意味散歩の魅力なのかなと思います。

 

散歩の楽しみ方は、そういった自分の外部にあるものの他に、自分の内側にあるものも楽しめます。

これは自分独自の楽しみ方かもしれませんが、歩いている時にその場面に沿った音楽やストーリーを思い浮かべます。

この場面で演劇をするなら、この場面をノベルゲームにするなら、どんな空気どんな音楽どんな言葉で表現しようかと常に考えています。

まちの話の中で、まちにいる人それぞれに物語があると書きました。そういった物語が重なり合うことで生まれる物語とか素敵じゃないですか?

 

さて、話が変わりますが皆さんはドイツの詩人ゲーテが言ったと言われるこんな言葉を知っていますか?

雨の中、傘を差さずに踊る人間がいてもいい。それが自由というものだ。

面白い言葉ですね。雨の中傘を差すという当たり前のことをしなくてもいい、それが自由だという言葉です。

この言葉の本質とはズレるかもしれないですが、散歩もまた自由なものだと思います。

散歩をする時に突然自由にと言われると戸惑う方がいます。そういう時は、規定のルートを歩きながら気になった道を選ぶ自由を得るのも1つの手なのかなと思います。

近道を探すでも、綺麗なものを探すでも、気になった路地に入るでも、なんとなしに歩くでも、きっと不正解はないと思います。

自分の感性に従って歩くことが、自分の好きなもの素敵なもの、また自分自身を見つける散歩になるのかなと思います。

 

最後に少しオプションの話をしましょう。

実は散歩は歩くだけではないです。必要に応じてオプションをつけることが出来ます。

例えば、持ち物。

可愛いカバンやお洒落な帽子、手に持てばコーヒーも持ち物ですね。自分の思い描く散歩に自分自身のスタイルも含まれる場合はそういった部分もカスタマイズ出来ます。

他にも、寄り道、同伴者、お土産などなど様々なオプションが付けられます。

なんなら帰った後の楽しみを残しておくプランもあります。散歩は歩いている間だけじゃなくて、帰った後の楽しみを思うドキドキも含まれたりします。

 

長くなっちゃいましたがそんな色々な要素を組み合わせて、是非自分の散歩を楽しんでみてください。

ぼくとまちで暮らすことの新規性

まちで暮らすことの新規性。

これは決して、田舎をでて街でという意味ではないです。それでいうと、自分の使う「まち」という言葉が意味するものは、「自分が認識する自分が暮らしている場所。またそこに住む人や生き物、文化や建物などすべて」といった感じで使ってることが多いです。市区町村みたいな行政区単位ではないし、生命も文化も人工物もそこにあるもの全てを対象にしてます。

 

少し話が脱線しましたね。

以前、自分とまちとの関係性について話しましたが、最近生活してて「あまりまちで暮らしてないなー」と思うことが多いです。

どこかの研究者の方ももしかしたら言及しているかもしれませんが、特に都心部では隣人を含めた人との関わり方が地方部とは違ったり、また最近ではむしろ関わりを作ることに躍起になったいたりします(気になら方はゲゼルシャフトゲマインシャフトといった考え方をご参照下さい)。

それ自体はとても素敵な流れのような気もしていますが、一方でグローバル化(ここでは国際化ではなくて、情報通信技術の発展による距離の概念の曖昧化を指します)によって、どこの誰とも繋がれるようになったことで、より一層コミュニティやまちの考え方が複雑化したような気がします。

 

堅苦しい言い方になってしまいましたが、つまりスマホのような誰かと繋がれるツールを起点に、人と線で繋がることはあっても範囲で繋がることは少なくなったんじゃないかなぁと思います。

素敵な店も友達の家も、頭の中の地図の上で点としてプロット出来ても、その隣に住んでいる人や斜め向かいのイタリアンバルは全く知らないみたいな。

 

色々な方と線で繋がれることも素敵ですが、なんとなく他にも楽しみ方があるような気がしたんですね。

スマホが普及して、スマホの画面と友達や家族の顔しか見ないような生活を送ることもあります。

あ、別にたくさんの人と関わりを持てというつもりは全くありません。僕も元々は内向的な人間ですし、1人の時間も大切なタイプなので、人に囲まれると息苦しくなる感覚もなんとなく分かります。

 

でも、顔を上げてみると存外たくさんの人がそのまちで暮らしていて独自の物語を紡いでいます。

先程も言いましたが、他の人の物語に積極的に介入するのはとっても疲れますし大変です。

でも、まちという物語を観ている観客として、もっと見える物語に幅があり選択肢が広がるもの悪くないんじゃないかなと思います。

人だけではありません、文化や生態系、食、思想、建築物、流行など様々な見方ができます。

それぞれがたくさんの物語です。

最近は、色々なものが増えたこともあり人間は無意識的に受信する情報を制限しているらしいです。

 

あなたのまちにはどんな物語が息づいていますか?

時間や余裕がある時で大丈夫です。

娯楽を楽しむように耳を澄まして目を凝らして、あなたの感性でまちという物語を十二分に楽しんでいってくださると嬉しいです。

ぼくとまちとの関係性

まちづくりの研究をしていると「そんなに街が好きなの?」とか「よっぽど街が好きなんだね」と言われることが多くなります。

たしかに、まちは好きなんですが、昔から「まちが好き!」という感じではなく、もっと薄ぼんやりとしていました。

 

今回はメモも兼ねて、ぼくとまちの関係についてお話したいと思います。

 

話は変わりますが、僕は小学中学の辺りで小説というものにハマりました。ハリーポッターもダレンシャンも読まないような子どもでしたが、何の気なしに読んだ「オーロラの下で」という犬ぞり隊の話で号泣したのがきっかけだったと思います。

その後、本好きの友達が出来、有川浩さんや赤川次郎さん、辻村深月さんなど色々なジャンルの物語に手を出しました。

新潟出身ということで綾崎隼さんの小説ばかり読んでいた時期もありました。

 

中学三年生くらいの頃に、パソコンを手に入れました。中古のWindows XP。スペックは御察しの通りでしたが、そこで「ノベルゲーム」というものに出会いました。

単純だった僕は、「フリーノベル?無料でお話が読めるの?」くらいに思っていたのですが、手を出すともっと奥深いものでした。

小説でも備わっている文字と挿絵に加えて、その時々のBGM、SEなどがその場の世界観をより深く作り上げていて、初めて読んだ「終わりに見えた白い明日」を読んだときは号泣していました(これだけ見るとよく泣く人みたいですね笑)。

 

そこからノベルゲームにどっぷりハマった僕は、来る日も来る日もノベルゲームをプレイし続け、100本ほどプレイ、自分で作ったり、レビューを始めた辺りで「演劇少女は古都鎌倉を雪で潰す」という作品に出会います。

当時は千円程度とは言え、有料の作品はあまり手を出しておらず、その人の作品が好きでイラストも綺麗だったため何となく惹かれて買った作品でした。

プレイして、熱量に衝撃を受けました。

何となしに横目で見たりしていた演劇ってこんなに熱くてこんなに素敵なものなのか、と。

丁度、有川浩さんの「シアター!」を読んでいたということもあり、これは素敵なものに違いない!と所属していた剣道部を辞め、演劇部に入部しました。高校一年生の頃です。

 

本やノベルゲームに触れていたこともあって、世界観を想像することは出来ましたが、いかんせん演技は素人。初めて立った舞台では、「声はいいけど」というなんとも中途半端な評価を頂きました。

その辺りで高校を転校することになるんですが、転校先でも演劇部に所属しました。

すっかり落ち込んでいた自分は「自分は役者に向いていない」と思い、しかし素敵な世界を作ることは諦めきれず、裏方として所属をしていました。

とはいえ、キラキラ輝く役者をスパッと諦めることもできず、最後のチャンスと割り切って部内のオーディションに応募しました。

 

ここで一悶着あるんですが、今回は割愛。

気になる人がいれば今度話します。

結果は主役をいただくこととなりました。

 

そんなこんなで、演劇に夢中になり高校時代は光のように過ぎていきます。

大学受験は失敗しましたが、今では悪くない大学に行けたのかと思っています。

行った大学の大まかな分野はまちづくり。

手先が不器用で、理系があまり得意ではなかった僕は、「うわー、製図とか模型とかできないよ」と思ったことを覚えています。事前にカリキュラムを調べておきなさいという話ですね(笑)。

確かに製図や模型の授業も必修で存在し、僕の悪い成績を作り出す一因ともなりました(笑)。

そのような感じで、最初は割と楽しめずに「なんでこんな大学に入ったんだ」と悩む前期でした。

ある時、何かの授業で「まち」と「まちの持つ歴史」について触れる機会がありました。文系でありながら(なんなら現在社会学に違い分野とも言える立場で有りながら)歴史がとても苦手でした。

「この授業単位取れるかなぁ」となんとなく考えていましたが、たしかその授業の中で「上演論的パースペクティブという話がされました。

詳しくは割愛しますが、「都市を読み物のように扱うとき、私は都市という空間の内側から読むことになる。つまり私は登場人物であり読み手になるのだ。このことを上演に例えると都市の中に存在する建物やマスメディア、机や椅子なども舞台の上にある装置であり、それが重層的に都市を舞台であり客席として構成している」といった話がされました(詳しく知りたい方は「都市のドラマトゥルギー」という本をご参照下さい)。

何が言いたいかと言いますと、「ああ、そうか。まちも物語なのか」と理解したわけです。

文学や物語の一部は人の営みをベースに作られるので、ニワトリと卵的な話もあるかもしれませんが、それはさておき、少なくとも僕はその捉え方でまちを見る目が変わりました。

普段何気なく歩く道や公園にもドラマがあり、無機質に建っているマンションにも登場人物達が生きている。そんな見方をしたら、突然まちが魅力的で面白いもののように思えてきました。

今でも散歩するときはそこかしこに散見する要素からドラマを想像してしまいます。所謂変な人、変人ですね(笑)。

 

はてさて、長く語ってきましたが、そんなこんなで僕はまちを好きになったわけです。

まちづくり系というと工学をイメージされる皆さん、まちをつくるということは人の営み=物語をつくることにも繋がると知っていただければ幸いです。

 

これ以上語ると今でも長いのにさらに長くなるので今回はこのくらいにして。

また「研究」やら「まちづくり」ときには僕の趣味とかについても書いていけたらと思っているので、興味のある方はまた読んでくだされば幸いです。