リンゴ日和

シロクマが好きな学生が書いています。

ぼくとまちで暮らすことの新規性

まちで暮らすことの新規性。

これは決して、田舎をでて街でという意味ではないです。それでいうと、自分の使う「まち」という言葉が意味するものは、「自分が認識する自分が暮らしている場所。またそこに住む人や生き物、文化や建物などすべて」といった感じで使ってることが多いです。市区町村みたいな行政区単位ではないし、生命も文化も人工物もそこにあるもの全てを対象にしてます。

 

少し話が脱線しましたね。

以前、自分とまちとの関係性について話しましたが、最近生活してて「あまりまちで暮らしてないなー」と思うことが多いです。

どこかの研究者の方ももしかしたら言及しているかもしれませんが、特に都心部では隣人を含めた人との関わり方が地方部とは違ったり、また最近ではむしろ関わりを作ることに躍起になったいたりします(気になら方はゲゼルシャフトゲマインシャフトといった考え方をご参照下さい)。

それ自体はとても素敵な流れのような気もしていますが、一方でグローバル化(ここでは国際化ではなくて、情報通信技術の発展による距離の概念の曖昧化を指します)によって、どこの誰とも繋がれるようになったことで、より一層コミュニティやまちの考え方が複雑化したような気がします。

 

堅苦しい言い方になってしまいましたが、つまりスマホのような誰かと繋がれるツールを起点に、人と線で繋がることはあっても範囲で繋がることは少なくなったんじゃないかなぁと思います。

素敵な店も友達の家も、頭の中の地図の上で点としてプロット出来ても、その隣に住んでいる人や斜め向かいのイタリアンバルは全く知らないみたいな。

 

色々な方と線で繋がれることも素敵ですが、なんとなく他にも楽しみ方があるような気がしたんですね。

スマホが普及して、スマホの画面と友達や家族の顔しか見ないような生活を送ることもあります。

あ、別にたくさんの人と関わりを持てというつもりは全くありません。僕も元々は内向的な人間ですし、1人の時間も大切なタイプなので、人に囲まれると息苦しくなる感覚もなんとなく分かります。

 

でも、顔を上げてみると存外たくさんの人がそのまちで暮らしていて独自の物語を紡いでいます。

先程も言いましたが、他の人の物語に積極的に介入するのはとっても疲れますし大変です。

でも、まちという物語を観ている観客として、もっと見える物語に幅があり選択肢が広がるもの悪くないんじゃないかなと思います。

人だけではありません、文化や生態系、食、思想、建築物、流行など様々な見方ができます。

それぞれがたくさんの物語です。

最近は、色々なものが増えたこともあり人間は無意識的に受信する情報を制限しているらしいです。

 

あなたのまちにはどんな物語が息づいていますか?

時間や余裕がある時で大丈夫です。

娯楽を楽しむように耳を澄まして目を凝らして、あなたの感性でまちという物語を十二分に楽しんでいってくださると嬉しいです。