リンゴ日和

シロクマが好きな学生が書いています。

ぼくと学位の考え方

最近、奨学金をチャラにするみたいな政策についての論争をよく見ます。

金銭的な難しさや、すでに借りている人への合意などを抜きにするのであれば、僕としては全然いいと思います。

お金を理由に有望な人材や熱意を持った人間の道が絶たれないということは素晴らしいことです。

とはいえ、それで大学進学者が増えて、本当に専門家が増えるのかは疑問が残ります。大学に入ると、基本的には専門性を持った講義を受けます。

専門学校や短大の多くが、実践的なスキルの習得を目的としたものであるならば、大学は知識や探求するためのスキルやセンスを得る場所かなと僕は考えています。

 

皆さんに問いかけをするのであれば、

読んでらっしゃる方が大学卒業した方であれば、どの程度授業の内容を覚えているでしょうか? また、ご自身の今の生活にどの程度活かせているでしょうか?

大学在学中やそれより前であれば、自分の夢と大学はどれほど密接な関わりを持っているでしょうか?

 

 

少し話は変わりますが、大学に入るときに基本的に学部を選択することになります。

例えば、文学部や工学部、経営学部などその種類は豊富ですが、どれも基本的に専門性を持っていると思います。

そして、卒業時には全員が「学士号」と呼ばれるものをもらうはずです。

広く一般には、総称して「大卒」と呼ばれますが、実は皆さん個別に専門性のある「学士号」を有しているはずなんですよね。

 

お恥ずかしいことに、自分は今でこそ目的と熱意を持って大学院に進学しましたが、大学進学時には「大学に進学したほうがいい企業に就職できる」くらいの気持ちで進学をしました。

自分の学ぶ分野である「まち」は範囲が広いので、職業とも関係しているとは言えますが、その頃自分は身につけたい専門性など何一つ考えていませんでした。

そういった人間がなあなあに講義を受けて、何一つ覚えていない知識で「学士号」を持っているって恐ろしくないですか? 車運転できない人が免許持っているような印象を覚えます。

 

僕はその人だけが悪いとは思いません。大学に行けば良い職業につけるし、入れたのであれば入学資格を有していると言えますし、卒業できたのであれば卒業資格を有していたといえます。選ぶことができて、メリットがあるならば選ぶのは当然だと思います。

 

だからこそ、大学進学と卒業(学位取得)について考え直す必要があるんじゃないかと思います。

 

とっても希望的に物事をいうのであれば、大学の入学と卒業の間口を狭めるのも一つの手かなと思います。願わくば、そのために入学以前や在学中の学びの向き合い方が真剣になってほしいとも思います。

”希望的に”と申したように、多分そんなことはならないと思います。

メリットがあれば入学したいと思う人は増えるでしょうし、受験者数が多ければ大学は画一的な入試を行う道を選ぶと思います。 その中で儲かるのは予備校とかでしょうか?

 

とっちらかりにとっちらかりましたが、自分が思うのは「学位」というものをもう少しちゃんと考えてもいいかなということです。

研究に対しての専門性はなくても、知識やスキルだけは胸を張って「この学位を持っています」といえる人間が増えれば僕は嬉しいです。

ぼくとかかわり方と相互作用

気づいたら7月です。大学院に入って3ヶ月が過ぎました。

個人としても、動かしているプロジェクトとしても、研究チームとしても、法人としてもいろいろと大きな変化があった三ヶ月だったと思います。

その分、学びも多くあったので今までに書いた記事のアップデートとかも行いたいなぁと思いつつも、忙しくて手が出せない状況。忙しいって言葉、自分の計画性のなさや効率の悪さが露呈するのであまり使いたくないですが、反面できていない状況をとりあえず受け入れるいい口実になったりするので、あわあわしているときは使ってしまいます。

ちなみに、珍しく書いているのは課題で英語論文(※1)を読んでいるのですがあまりに眠すぎて眠気覚まし兼息抜きという背景があったりします。

 

そんなことはおいておいて、何を書こうかぼやっと考えた結果、最近考えに考えている「人とのかかわり方」について少し触れてみたいなと思いましたのでそんな感じの内容を書きます。

考え始めたきっかけは、いつもの如く「人ってどうやったらわくわくして人生を過ごせるのか」みたいなことを考えていたときに、友達から「ワクワクしている人で囲ってしまえば、ワクワクするんじゃないかな?」と言われたことが始まりです。

ちょうどその時、社会のことを扱った研究をしているのに社会学の基礎知識がなさ過ぎることに危機感を抱いて勉強を始めていたときでしたので、社会学の概念である「相互作用」が頭に浮かびました。

まだまだ勉強不足ですので、詳しい説明はしませんがお互いが影響を及ぼしているという立場に立つのならば、そういった方法は有りかもしれないと思う一方で、影響を受けるときと受けないときが存在していることも実感として持っていました。

そこで、とりあえずその条件とかにかかわらず、「人とのかかわり方」について考え直してみようと思い立ったのでした。

 

まずは、西村さんの著書である「かかわり方の学び方」を読み始めました。ざっくりと紹介するとワークショップの中でファシリテーターと呼ばれる人にお話を伺い、"ファシリテーター"には何が必要なのかを考えるといった内容です。読んだ結果としては、とにかくモヤモヤしました。そしてこれは成長と共に読み返すことで暗黙知を知識に変えるための本なのでは?と思うような本でした。得られたことは、様々なかかわり方があり、それを環境、状況、場の特性、人間性などを考えながら変化させていくものであり、自分にあったかたちをつくるものなのかもしれないというとっても抽象的な答えでした。

 

次に、金田さんが東北で行った「カフェ・デ・モンク」での気付きをベースに書かれた「傾聴のコツ」を読んでみました。これは関わるという主体的な行為というより、向き合うといったもう少し受動的な行為だと感じました。傾聴において大切なのは、相手を中心に据えること、誠実であること、自分のコンディションを万全にしておくことなのかもしれないと思う一冊でした。

 

一番最近に、パターン・ランゲージを使ってまとめられた「対話のことば」を読みました。これは、関わることでもあり、受け入れることでもあるような割と中間的な立場のものかなと思う内容でした。上のような内容に加えて、相手の世界を理解するなどより概念的な言葉で書かれていたように感じます。あとは、解決を目指すという意味で言えば傾聴との違いと言えると思いました。

 

ここまで読んできて、少しは進んでいるような気もしますが、未だに答えが出た感は無いのでこれからも考え続けていくテーマなんだろうと思います。

おまけという訳では無いですが、社会学で有名なゲオルグジンメルについて学んでいたらジンメルのいう「配慮」の考え方がとても考えているかかわり方に影響しそうだと感じました。

菅野先生がまとめられた訳が個人的に好きでしたのでそこから。

−つまり配慮しあうということは、<私から見えるあなたは決してあなたそのものではないでしょうが、そのことを十分踏まえて私はあなたの人格の全体性を尊重します。ですからあなたにもそのように接してほしいです。>という相互的関係を意味しているのだ。−

菅野仁, 2003, 『ジンメル・つながりの哲学』, p.144より

 

つまり、相手のことを完全に理解することはできないが、それを踏まえた上で相手のすべてを尊重するということが配慮だと言っています。

人間関係においては、自分から見える相手の像をすべてだと思って、それ以外の部分が見えたことで「変わってしまった」とか「そういうやつだったのか」といった落胆を示す人がいます。しかし、これを考えるともともとそれは当たり前で、相手のすべてを理解しているというのは思い上がりでしかないのがわかります。

自分にも心当たりが有りまくるのでとてもグサグサくる理解でしたが、今後はとても気をつけようと思いました(笑)。

 

少しそれてしまいましたが、今現在の理解としては

  • 相手を理解しようとすることは重要(しかし、全てをわかることはなく、自分ではなく相手の目線で理解することが必要)
  • これといった型はなく、関係する要素を鑑みながらデザインしていく(もしくは流れによって生まれていく)
  • 自分の立場を何処に置くかによってコミュニケーションのかたちは大きく変わる

あたりでしょうか。

現状報告を散りばめた散文になってしましたが、そろそろ作業に戻りますのでここまでにしようと思います。

これを読んで、面白そうだから話してみたいやご意見など有りましたら、気軽にお声がけください。

それでは。(あまりに文章が雑なのでまた時間があるときに直したいと思います)

ぼくとベランダでの時間

僕は今、関東で一人暮らしをしています。

出身は地方ですが、大学進学を機に関東に出てきたというわけです。

途中留学で4ヶ月ほどオーストラリアに住んでいたこともありますが、一応ずっと一人暮らしをしてきたわけです。

 

 

僕に生活の知恵を授ける話は役者不足ですが、4年と数ヶ月の一人暮らしから感じたことを書けたらと思います。とはいえ、4年と数ヶ月を語り始めると長いので、今回は一つだけご紹介します。

 

僕は、四年間のほとんどを3畳ほどの部屋に住んでいたので、部屋の中というよりはベランダで時間を過ごすことが多かったように思います(とはいってもベランダも人一人いるのが精一杯の広さでした)。

今日は、そのベランダでどんな時間を過ごしたかを書こうと思います。

昼間は大学やらに出ていたので、ベランダにいるときはもっぱら夜でした。

ベランダに出ると、(半分外ですので)部屋にいるよりいろいろな情報が入ってきます。

例えば、二階の住人の彼氏との通話(主に喧嘩や愚痴が多かったです。世知辛い)や、左隣の住人のお風呂の匂いが排気口から流れてきたり、歩く人の歌やタバコのニオイなど。

お酒が好きでしたので、一人でお酒を飲むこともありました。そういうときは割とベランダが多かったですね。てきとーに外から受け取れる情報を楽しみながら、お酒を飲むといういかにも陰気な楽しみ方をしていました。

星を眺めることも多かったです。都会だったのであまりキレイに見えなかったですが、それでもなんとなく一日の終わりの空だと思うと意味が多く含まれた景色に見えたりしました。

しんどいことがあって、落ち着きたいときも部屋でふさぎ込むと本格的に病むので、割とベランダで「しんど…」と愚痴をこぼしていました。

みなさんは、ベランダで過ごすことはありますか?

まちづくりでは内でも外でもない縁側的な設計が重要視されてきていますが、ベランダのように少し個人よりの中間領域は、個人の生活を少し豊かにするんじゃないかなーなんて思います。

最後に、部屋の様な個人の空間だけではなく、少しだけ外とつながったベランダもたまにはみなさんの生活を刺激的に変えてくれるかも知れませんよという生活ノウハウ的記事の締めくくりの言葉をおいて、この記事を締めてみようと思います。

 

ぼくと匂いの感じ方

僕は、夕方散歩しているときの夕飯の匂いとお風呂の匂いがすごく好きです。感覚的なものなので、理由をちゃんと考えてみると「そこに人が暮らしている感覚」が好きなんだとわかりました。

 

もしかしたら、前に書いたかも知れませんが最近の都市での生活は「街路の上を目的に沿って生きている、点と線で構成された生活」を送ってらっしゃる方が多いような気がします。

そうというのも、スマホが普及し、移動時間も個人の時間となってしまったことがそういった生活をより加速させたのかなと考えています。

ある意味すごいと思います。電車での隣の人ですら興味を抱かず、全くの別の世界として隔離している。なんだか切ないなぁと思ってしまいます。

以前も述べたとおり、強い地縁のしがらみに嫌気が指して都会文化が築かれた背景もあるので仕方ないかも知れませんが、それにしてももう少し偶然性というか一瞬一瞬の機会を楽しんでもいいんじゃないかなと思ってしまいます。

 

話がずれましたね、散歩は五感を駆使して行うものだと僕は思っています。さらに言えば、それ以上のものも駆使すると。

例えば、嗅覚と想像力。

「ここのうちのご飯は焼き魚だろうな。きっとご飯も炊けた頃だろう」

そう考えたりすることはありますか?全然知らないお家の家庭の食卓という空間と散歩している自分、家の壁で隔たりはありますが、それを匂いと想像力で橋渡しをして、空間の境界が曖昧になる。

面白くないですか?

もしかしたらこのまま生きていっても話すこともないような人の食卓と空間を共有するってどんなニッチな状態だよ!と笑ってしまいそうです。

顔も知らない誰かさんですが、きっと美味しいと思って食べてくれればいいなと思います。

 

お風呂の匂いもそうですね。お風呂というめちゃくちゃパーソナルな空間と繋がれる謎の感覚。流石に裸体を想像したりはしませんが、疲れを癒やしていたり、家族の団らんの場所だったり、いろいろな空間が広がっているんだと思います。

 

まあ、歩いてるときはしっかりと認識しているわけではなく、感覚的に楽しんだり、なんとなく想像したりしてるんですけどね(笑)

 

ぼくと西瓜のたたき方

お久しぶりです。

リハビリを兼ねて短いものを。

 

みなさまは、西瓜を叩いて中身の詰まり具合を確かめるという方法を知ってますでしょうか?

ただただ叩くのも味気ないので、僕は小気味よく太鼓のように叩くことが多いです。

ポンポンと太鼓のように叩くとちょっと楽しくなります。中身の詰まり具合を確かめてるだけなのに。

きっと、人生ってそう言うものなんだと思います。

ぼくと未来の見つめ方

忙しくて久しく書けてませんでしたが、今回は「未来の見つめ方」というテーマで書いていきます。

 

未来、自分の未来や自分の住んでいる場所の未来を想像したことはありますか?

僕は大学に入るまで漠然とした就きたい職業はありましたが、それ以外考えたこともありませんでした。

10年後、20年後自分がどんな環境でどんな生活を送っていてどんな人と一緒にいるのか。

そんなことを考えるきっかけになればと思います。

 

まず未来を考える前に、未来というものについて少し考え直してみましょう。

未来とは、出来事(僕でいうところの物語)の積み重ねであり、最新刊のようなものだと考えています。

例えば、皆さん未来を想像されるときに歳をとった自分が出てくると思いますが、当たり前ですがいきなり歳をとったりしません。

10年後なら10年の出来事が積み重なって十年後という未来が出来るんですね。また、未来の先もずっと続いていきます。時間は流れであり、止まることはありません。なので、未来を見つめるときもその前と後ろをしっかり考えることが重要です。

(建物や植栽、ひいてはまちも完成したときが最高でどんどん老朽化するんじゃなくて、どんどん積み重なっていく物語によって輝きを増すものを作りたいですよね。)

 

さて、未来が出来事の積み重ねであることをお話しましたが、更にいうと皆さんが社会(※1)で生きていることを考えると、皆さんのことだけを考えても仕方ありません。皆さんを取り巻く環境も皆さんの未来には存在しますし、同様に時間を積み重ねてきます。未来は個人ではなく様々な人やモノの物語の積み重ねで構成されてるんですね。

最近はスマホなどが普及して、個人化が進んでいますが、情報通信技術を使って遠くの人とつながることも出来るようになりました。

10年後、あなたは物理的にかかわらずどんな人たちに囲まれているでしょう?

また、関わることがなかったとしてもあなたと同じ社会に生きている人たちはどんな人たちでしょうか。

 

さらに、目に見える以外のものにも目を向けましょう。前の2つに包含されていなくもないですが、目に見えない文化や世相みたいなものも改めて考えてみましょう。

僕の知り合いの中には「社会」を生き物のように捉える人がいます。自分とは関係のない生き物のように「今社会ではこういうことが叫ばれているのか」みたいに考えるようです。

でも、面白いことに(もしくは呆気ないほどつまらないことに)ふたを開けてみると社会は人の集まりです。モノや目に見えないものが取り巻いてはいますが、本質は人間の集まりだと思います。

さながら、獅子舞の被り物を取るように、もしくは綱引きの「オーエス!」の掛け声に自分の声が混じっていたことを自覚するように社会というものがもう少しだけリアルに見えたら嬉しいです。そう言っておきながら、何億もいる人間の集まりをハッキリと捉えきるのは無理だと補足しておきます。

話がずれましたが、目に見えないものですね。

どんな文化が残ってるんでしょうね。

どんな人がどんなことを考え、どんな世論として現れるんでしょうか。

若い皆さんは、自分が年老いた後のことを考えたことはあるでしょうか。

人口減少が進む今、僕たちの老後はどうなるんでしょうか。もっと言うと僕たちがどうすれば素敵な未来がつくれるんでしょうか。

日々を生きることに必死だと、ついそう言ったことを忘れがちです。一年に一度でも、自分がどういうところまでやってきて、これからどこに向かいたいかみたいなことを考える時間をとりたいですね。

 

ぼやぼやとした終わり方になってしまいましたが、是非皆さん考えてみて下さい。

もし、嫌な未来が見えたり思い付かなかったりしたら、どうやったら素敵な未来が出来るか一緒に考えましょう?

 

割と考え方とか価値観みたいなものを書きすぎてそろそろ「そんなの綺麗事だ!」的な話もありそうなので、次はどこかで僕の今まで積み重ねてきた出来事にも触れられたらと思います。

ぼくとダブルアーツという漫画の話

雨の中重たいテーマを書くのが憚られましたので、今日はライトなテーマで。

僕は元々そこまで漫画を読む方ではないのですが、それでもこの「ダブルアーツ」という漫画はとても好きで、たまに見返すほどです。

ダブルアーツは、最近では「ニセコイ」などで有名な古味直志先生が週刊少年ジャンプにて描いていた漫画です。全3巻で買い集めるのもそこまで苦労しません。

 

あらすじとしては、謎の死の病「トロイ」が蔓延する世界で、巡回僧(シスター)と呼ばれるトロイに対して一定の免疫を持つ人が相手の毒素を吸い取ることで延命を図るというのが人間に残された最後の手段でした。

主人公のエルーという少女はシスターとしての役目を果たして帰る途中トロイの発作に見舞われます。「もうダメだ」そう思ったときに、もうひとりの主人公であるキリという少年が助けに来ます。トロイは触ると伝染る病気ですので、エルーは触れちゃダメと言おうとするのですが、なんと不思議な事にキリの手が触れた瞬間にエルーの発作は収まります。

シスターのように相手の毒素を吸い取ることができる人間は極稀にいましたが、発作を止めることができる人間なんて聞いたこともない。エルーは協会本部にキリを連れて行くことなるのですが、二人が手を離すとエルーが発作で死んでしまうため、二人は手を繋ぎながら行くことに。

途中、強力な仲間や謎の病「トロイ」を広めているのではないかと思われる組織などと出会いながらも、二人は少しずつ協会本部へと向かうのでした、手を繋ぎながら。

 

という感じですかね。

お年頃の男女からしたら手をつなぐの自体も恥ずかしいのに、一秒も手を離さずに平穏に日々を過ごすなんて至難の技。

また、極度のお人好しのエルーにキリが心配したり、キリの謎の器用さにエルーが絶句したりと二人は少しずつその関係を深めながら旅を進めていくといったお話です。

 

あまり語るとネタバレになっちゃうので難しいですが、エルーの人を助けたいという純粋な想いや、キリのエルーを守ると決めた熱い想いなどいろいろなものが交錯してとっても素敵な作品です。

僕の価値観の原点は、これと「SKET DANCE」と言っても過言ではないくらいとても影響を受けた作品です。

キャラクターも素敵なので、気になった方はぜひ手にとって見てください。

(アマゾンのリンクを貼っておきますが、広告というよりは漫画の表紙を見てもらうためのものです。買うならブックオフにも売ってますよ←)

 

 

ダブルアーツ 1 (ジャンプコミックス)

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ダブルアーツ 2 (ジャンプコミックス)

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ダブルアーツ 3 (ジャンプコミックス)

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